<   2015年 03月 ( 3 )   > この月の画像一覧

★「魔訶般若波羅蜜多心経」 ➄~23作・諸橋精光

舎利子 色不異空(舎利子よ、色は 空に異ならず)

わたしたちは、自分が目にしているものは
確かに そこにあると 思っています。

この自分というものも 確かにあると 思っています。
けれど 本当は、それらのものは、
わたしたちが 思い込んでいるような 確実なあり方で
存在しているのでは ありません

たとえていうなら、 それは海の上に立っては 消える 波のようなもの。
波を固定して つかまえようとしても つかまえられないように、

それらは つねに 移ろいゆき、 そこには 何ひとつ
つかまえられるような 実体はないのです。

  〚空不異色〛(空は色に異ならず)

とはいっても、 それらがまったくないと
いうわけではありません。
この世界にしても、この身体にしても、現実にあることは
確かなのです。
しかし、それらは そのものとして 自立してあるのではなく
それは ちょうど 大きな海のおもてに 起こっては消える
波のようなものとして あるのです。

波は海そのものと 切り離すことはできません。
波と海とは つねに ひとつのもの。
その海というのが じつは、この はんにゃはらみつの 大海なのです。

わたしたちも含め、 この世界のすべてのものは、
それぞれが はんにゃはらみつの 大海とひとつに
つながったものとして 存在しているのです。


[色即是空](色はすなわちこれ空)

この わたしというものも、 
この物質的な世界も
たえず うつろいゆく 波のようなものなのです。
しかし、それらは ただ むなしいだけの
ものではありません。

波が 海そのものと 別のものではないように、
それらは ハンニャハラミツ
という 大いなる実在と
別のものでは ないのです。 

[空即是色](空はすなわちこれ色)

その大いなるハンニャハラミツの
あらわれが
わたしたちという存在、
わたしたちの
世界。
わたしたちの この小さな身体は、 そのまま宇宙全体に広がる
ハンニャハラミツであり、さとりそのものだったのです


受想行識 亦復如是〛   (受・想・行・識またまたかくの如し)

このことは、色や 形の世界 だけでなく、
この世界や わたしたちを 形づくっている
感覚とか、イメージとか、意志とか、認識といった
心の働きの 世界についても 同じこと。

つまり、
体も、心の要素も、みんな
ハンニャハラミツの大海の おもてに立つ 波なのであり、
その ハンニャハラミツの あらわれだったのです。


舎利子 是諸法空相 ( 舎利子よ、この諸法は 空相にして )

現実のこの世界を 成り立たせている
ものごとは すべて
大海の表面の
ひとつ ひとつの波のようなもの。

しかし、その波である ということは、
逆に見るなら 
大海そのものでもあると いうことなのです。

不生不滅〛(生まれず滅せず)

わたしたちは この世に生まれ
また死んでゆきます。

それは この大海の ひとつの波が生まれ、 
また 消えてゆくようなもの。
しかし、
その大きな海そのものは
生まれることも 
消え去ることもありません。

この大海こそが わたしたちの 本体なのですから、
わたしたちは じつは最初から
生まれることもなく 消滅することもない、
そういう存在だったのです。

たとえば、人間が 死を恐れるのは
自分がなくなったら すべてが終わり、
無になると 考えているからなんだ。

でも、それは 波の形だけを 見ているようなものなんだ。
生きている人間だけが すべて なんて 考えているうちは
死の恐怖から のがれることは 決してできないだろう。

もし、自分というものが 表面の波のひとつにすぎないのではなく、
その 大きな海そのものなんだということが 本当に分かったなら、
わたしたちは 自分の死を目の前にしても 
あわてたり 恐れたりすることなく、安らかでいることが できるはずなんだ


不垢不浄〛 (垢つかず、浄からず)

心の 醜く汚れた姿と 美しく清らかな姿とは
波の形の違いのようなもの。
どちらも はんにゃはらみつの 大海の表面に立つ  波なのですから、

その本体に違いはないのです。

欲望にとらわれた人間の 醜い姿と
さとりを求める人の 清らかな姿とは まったく正反対に見えるけれど、
どちらも 同じ ハンニャハラミツの 大海の動きなんだ。
欲望の心も、 さとりの心も 
ひとつの真実のあらわれなんだね。

欲望をいちがいに悪いもの 
汚れたものと決めつけていたら
この世の 深い真実は つかめない。

善悪という 人間の基準からだけではなく、
もっと 広く大きな ハンニャハラミツの 海そのものから
眺めてこそ、
わたしたちが 生きることの 真実の姿はつかめるんだ」

不増不減〛 (増さず、減らず )

わたしたちは 日頃 価値の世界に生きています。
評判や 名声が
上がったり 下がったり、 財産が増えたり 減ったり。

しかし、 それらも 波が大きくなったり 小さくなったりするようなもの。
海そのものは まったく 増えも 減りもしていません。
わたしたちの 本当の自分である ハンニャハラミツの
真実の世界は 永遠に 増えることも 減ることもないのです。

わたしたちって、 ふだん 
自分にとって 価値のあるものが
増えた 減ったといって 喜んだり 悲しんだりしている。
自分の評価や 財産や 幸福を 
人と比べ、その増減を
気にしながら生きているわけだよ。

でもね、それは わちしたちが 世界のほんの表面だけを見て、
それにとらわれ 右往左往しているだけなんだ。
この 深いハンニャハラミツの世界から見れば、
それらは すべて幻にすぎない。

ハンニャハラミツの世界に 入るということは、
そういう 囚われを
離れて、 真の安らぎの中に いるということなんだね


是故空中 無色〛この故に空の中には色もなく)
 
このようにすべては
ハンニャハラミツの
海のおもてに立つ波にすぎないのですから、

その立場から見るなら
疑いようもなく確実に
存在しているように 
見えるこの現実世界の
色や形は

真実には
そのように確実な
ものとして存在して
いるものではないのですし、

無受想行識〛(受・想・行・識 もなし )
わたしたちの 心を構成している
感覚や
思考や
意志や
認識なども

本当は 自分が思っているような
確かなものではない、
たとえていえば
夢や幻のようなものなのです。

 無眼耳鼻舌身意
(眼・耳・鼻・舌・身・意もなく  )

日ごろ
わたしたちが
それに信頼している 目、耳、鼻、舌、からだ、心という
感覚器官も

実は
なんら
確実なものではなく


無色声味触法 〛 
(色=眼の対象  声=耳の対象 香=鼻の対象 味=舌の対象 触=身の対象
法=意の対象 もなく)

その目や耳などが
見たり 聞いたりする
色や形、音や声、
香り、味、肌ざわり、
観念も
わたしたちが日頃
感じ、考えているように
確かなものでは ないのです。

*空の中には、 色・声・香・味・触は無い。
眼でものを見たり、耳で音を聞いたり、
鼻で匂いを嗅いだり、身体でものに触れたり、
心でものを考えたりするから、こだわる苦悩が起こるのです。
           
 無眼界 乃至無意識界〛 
(眼界もなく ないし意識界もなし)

感覚や意識をとおして接する
ものの世界や心の世界、
つまり わたしたちが包まれ、
その中で生きている
この現実世界というものも、
そのようなものとして
確実にあるのではなく
いわば 夢やマボロシの ようなものなのです。


*わたしたちは 日ごろ 自分や身の回りのものを
自分の感覚や 思考で
それぞれに 切り分け、 固定して、
その見聞きし 考える限りの 世界の中で生きている。

そして、それが 世界の唯一の
正しいあり方だと 信じて疑わない」

「けれども、わたしたちが 瞑想の立場、
つまりハンニャハラミツの立場から見るならば、

この世界は 真実には
そのように きっちりと区別され、
固定されたものではなくて、

なにか つかまえどころのない、
なにか もっと深いものとして
見えてくるのだ」

「そして、わたしたちが さらに
その瞑想を深め、感覚や心を静めて
とけ込んでいくなら、
現象世界という波は しだいに静まり、

ついには消え失せ、ただ、ハンニャハラミツの海だけが
輝き広がっている、
そういう境地があらわれてくるんだ」


わたしたちが 確かだと思っているこの感覚や 思考の世界は、
その固定観念をはずしてみれば、
それとは 別のまったく新しい姿をあらわしてくる。

わたしたちの見方によって 世界は変わるのだ。
そうしてみれば きみも分かるだろう。
この世界の ものごとはすべて

海の上に立つ波のようなもの、
夢やマボロシのようなものだということが。

実体のあるものは何ひとつないのだ。
あるのはただひとつ、
このハンニャハラミツの大海だけなのだ」


 無無明 亦無無明尽〛  (無明もなくまた無明の尽きることもなく)
ハンニャハラミツの大海というのは
無明の世界より
さらに大きく
さらに深く、無明の世界を
包み込んで、静まりかえっています。
実に
無明の 激しい流れは、
その激しい流れ そのままに

深く
静かな ハンニャハラミツの
智慧の大海なのです。

つまり
無明 そのものが さとりなのです。

だから
この世界というのは、
はじめから 無明などない、
すべては さとり なのだとも 言えるのですし、

逆に 無明の世界が
さとりの 実体として 永遠にありつづける
ともいえる、 そういう世界なのです。


乃至無老死 亦無老死尽〛 (ないし老死なくまだ老死の尽きることもなし)

そうしてみれば、無明からはじまり
老死に至る わたしたちの 苦しみの現実こそが
そのまま さとりなのですし、

逆にいえば
さとったといって 無明から老死に至る
人間の苦しみの現実が
なくなるわけでもないのです。

この
ハンニャハラミツの海の底から見れば、
欲望にもとづく人間の苦しみの世界は
すべて肯定される。

どんな苦しみも 悲しみも
どんなに醜いものも 汚いものも
すべて ただひとつの真実の
その時々の 姿として 受け止められんだ

何も変えなくていい。
何も改めて始めなくていい。

苦しみのままに わたしたちは
そのまんまで 真実のさとりを
生きているのだし、すでに救われているんだよ


無苦集滅道 〛  ( 苦・集・滅・道もなし )
このように、
わたしたちの世界は
無明の面と ハンニャハラミツのさとりの面、
という 二つの面がまったく同じである という世界なのです。

お釈迦様は
人々に対して この世界を 無明の面から見て、
「この世は苦であり、苦は欲望から生まれる。
その欲望の滅こそが 人間の理想であり、
そこには 正しい修行の 道によって至る」と、
お説きに なりました。


けれども、本当は
お釈迦さまは この深い
ハンニャハラミツの大海の その深い底から
世界をながめて おられるのです。

そこから見るなら、
人間の苦しみも 欲望も
さとりのすがたなのですし、
このさとりの 世界を生きること以外に
理想の境地とか、

修行の道が あるわけでは なかったのです。

わたしが見ているのも 
そのハンニャハラミツの世界。
それをわたしは ハンニャハラミツの智慧で見ています。

すべてが ひとつであるハンニャハラミツの大海こそ
さとり そのもの。

それが 実は お釈迦さまのさとり そのものだったのです。

そして、その同じ
ハンニャハラミツの大海が、
きみの心にも はじめっから 存在しているのです。

「そう。
わたしたち 人間のよろこびや悲しみ、
楽しみや苦しみのすべては
無明という大きな欲望に
もとづく波立ちだけれど、
実は それらは
この宇宙全体をその身体とする
たった ひとつの大きな生命のたえざる動きなんだよ。

この世のすべては 偉大な生命の
生きた活動なんだよ。
この大きな生命そのものが 

ハンニャハラミツなのであり、
その生命の力のことを
お釈迦さまは 「無明」という 言葉でいわれたんだよ」


生きとし生けるものはすべて
大きな生命の活動の一部として
無明の世界を苦しみながら
生きてるもの

それは、宇宙の一部であると同時に
宇宙全体である ハンニャハラミツを
生きる真実の姿でもある。
だからこそ、わたしたちが
それぞれの苦しい人生、つまり

無明の世界を歩み通すことに
意味があるんだ


真実を生きているといっても、
本当の幸せ、安らぎ、真実を
探し求めなければならないんだ


自分自身の中にあるハンニャハラミツ  


無智亦無得〛(智もなく また得もなし)


この心の 奥底にある
ハンニャハラミツの世界は
わたしたち人間の知力で
理解できるものではありません

また、具体的なものとして
とらえたり、表現できるものでもないのです。

 
以無所得故 菩提薩埵〛 (得るところなきをもっての故に菩提薩埵は )   

それは
わたしたち人間のはからいを
はるかにこえた
広く深い智慧そのものなのですから、
人がそれを さとろうとするならば
ただひたすら


 
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by orihime300 | 2015-03-13 16:27 | 俳句・川柳・他 | Comments(0)

★〚摩訶般若波羅蜜多心経〛①~➄ 作・諸橋精光

           般若心経
[人間の愚かさを はっきり認識する智慧のことである。仏になる為の智慧]
 諸橋精光 作 小学館

観自在菩薩(観自在菩薩が)

このわたし 観自在菩薩は、
じつは 今しがたも お釈迦さまの瞑想に 感応して、
般若波羅蜜の瞑想に入って いたのです。


行深般若波羅蜜多時 (深き般若波羅蜜多を 行じし時)

その瞑想に初めて入ったのは、
もう 遠い遠い昔のことでした。
その時、わたしは ふと 気がついてみたら、
この 深い深い心の底、ハンニャハラミツの
智慧の海に降りていました。

照見五蘊皆空 (五蘊はみな空なりと照見して)

そこから あらためて この世の ありようを ながめてみると、
この世界は それまでとは まったく違った 新しい姿で見えてきたのです。
そして、わたしは 明らかに理解したのです、
この 世界を形づくっている 色や 形や 感覚や 思いなどは、
すべて みな この海のおもてに
起こっては消える 波のようなものだったと。

 度一切苦厄〛 (一切の苦厄を度したまえり)

そして、わかった時、 わたしは この世のすべての
悩みや苦しみから 解放されて いたのでした
   

舎利子 色不異空〛(舎利子よ、色は 空に異ならず)

わたしたちは、自分が目にしているものは
確かに そこにあると 思っています。

この自分というものも 確かにあると 思っています。
けれど 本当は、それらのものは、
わたしたちが 思い込んでいるような 確実なあり方で
存在しているのでは ありません

たとえていうなら、 それは海の上に立っては 消える 波のようなもの。
波を固定して つかまえようとしても つかまえられないように、

それらは つねに 移ろいゆき、 そこには 何ひとつ
つかまえられるような 実体はないのです。                  
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by orihime300 | 2015-03-13 16:15 | 俳句・川柳・他 | Comments(0)

のせてのせて

<のせて のせて>

北極駅から動物園駅まで 客を拾い乗せて 走り続ける電車。
運転手は亀。 次〃乗り込んでくる動物たちの豊かな表情に
つられて 笑顔になってしまう。 

絵を見ているだけで、親子の、
仲間の、友達の・・会話が漏れ聞えてくるようだ。

 親の、子を見る深い眼差しや 仲間たちとの親愛の情景は
 見ていて心が和み、  優しい気持ちが湧きおこる。

 小学低学年までは繰り返しこのような
 絵本に浸らせてやりたいと思う。

「人を思いやる人格」は、5歳までに 確率されてしまうと言われる。
重要な時期に虐待されて 育つ子はあまりにも哀れに思う。
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by orihime300 | 2015-03-07 10:13 | 絵本 | Comments(0)